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蜂須賀茂韶(はちすかもちあき)

徳島藩主政治家、侯爵[日本]

1918年 2月10日 死去享年74歳

蜂須賀茂韶 - ウィキペディアより引用

蜂須賀 茂韶(はちすか もちあき)は、江戸時代末期の大名、明治・大正時代の華族。
阿波国徳島藩第14代(最後)の藩主。
文部大臣、東京府知事、貴族院議長を歴任した。
号は誠堂、霰笠。
徳川家斉の孫。
経歴[編集] 第13代藩主・蜂須賀斉裕(第11代将軍・徳川家斉の二十二男)の次男。
母は山本氏の娘、たま。
幼名は氏太郎。
従兄弟で第14代将軍の徳川家茂より偏諱を授かり茂韶と名乗る。
慶応4年(1868年)1月6日の父の急死により家督を継ぐ。
斉裕の危篤から死去が鳥羽・伏見の戦いの最中であったことから、藩内は大混乱をきたした。
その後の戊辰戦争では新政府側に与して奥羽にも兵を送ったが、相次ぐ藩内の混乱のため、新式のイギリス軍備を導入していたにもかかわらず少数の藩兵しか送れず、諸藩からの冷評を受けたと言われている。
明治維新後はオックスフォード大学に留学した。
明治15年(1882年)から同19年(1886年)まで駐フランス公使(スペイン・ベルギー・スイス・ポルトガル公使も兼務)。
1884年(明治17年)、侯爵となる。
第11代東京府知事(1890年 - 1891年)、文部大臣などを務め、麝香間祗候の待遇を受ける。
1891年(明治24年)7月21日、貴族院議長となり、1896年(明治29年)10月3日まで務めた。
この間、渋沢栄一と企業を設立。
渋沢が経営を担当し、蜂須賀茂韶は資金を調達した。
1879(明治12)年8月に東京海上保険(東京海上日動火災保険)を ……

関連作品

蜂須賀茂韶が亡くなってから、106年と167日が経過しました。(38884日)