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徳川慶篤(とくがわよしあつ)

常陸国水戸藩主[日本]

(慶応4年4月5日没)

1868年 4月27日 死去享年37歳

徳川 慶篤(とくがわ よしあつ)は、江戸時代後期の大名。
常陸国水戸藩10代藩主。
諡号は順公。
最後の将軍・徳川慶喜の同母兄・長兄にあたる。
来歴[編集] 1863年(文久3年)に水戸藩小石川邸から京都へ出発する徳川慶篤(国立国会図書館蔵『御上京道記』より) 水戸藩9代藩主・徳川斉昭の長男(嫡男)として水戸藩上屋敷にて誕生した。
母は一品織仁親王の末娘登美宮(吉子)。
幼名は鶴千代麿。
父の斉昭が軍事力強化など革新的な藩政改革(天保の改革)を行ったために隠居を命じられた結果、弘化元年(1844年)に家督を相続する。
当時の慶篤は幼年であったため、分家の三連枝(高松藩主松平頼胤・守山藩主松平頼誠・常陸府中藩主松平頼縄)による後見が命じられ、政務は保守派の重臣が補佐した。
斉昭の謹慎自体はその年の11月に解除されたものの、藩政へ関わることはしばらく禁じられたままであった。
嘉永2年(1849年)にようやく三連枝後見の解除、斉昭の藩政参与が許された。
嘉永5年(1852年)12月、12代将軍・徳川家慶の養女線姫と結婚する。
安政の大獄の際には、父の斉昭や尾張藩主徳川慶恕と共に不時登城した責任を問われ、慶篤は登城停止に処される。
万延元年8月の斉昭没後、文久2年(1862年)の坂下門外の変では、武田耕雲斎らを登用して尊皇攘夷派の懐柔を図る。
翌年、将軍徳川家茂に従って上洛した他、生麦事件の賠償問題などにも尽力している。
元治 ……

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