池田綱政(いけだつなまさ)
岡山藩主[日本]
(正徳4年10月29日没)
1714年 12月5日 死去享年77歳
池田 綱政(いけだ つなまさ)は、備前岡山藩の藩主(池田家宗家)。
幼名は太郎。
初名は興輝(おきてる)、のちに将軍・徳川家綱と父・池田光政より偏諱の授与を受け綱政に改名。
後楽園造営で有名な人物である。
生涯=
江戸時代前期の名君として著名な池田光政の長男。
母は本多忠刻と千姫の娘・勝子。
父・光政が30歳のとき、江戸藩邸で誕生した。
寛文12年(1672年)に光政の隠居に伴って家督を継いだが、父が存命中の藩政は隠居した父によって行なわれた。
天和2年(1682年)、父の死によって自ら藩政に取りかかる。
光政の治世により岡山藩は藩政が安定したが、大藩になればなるほど何事においても支出が増大し、そのために光政の治世末期から綱政が家督を継いだ頃には岡山藩は財政難に見舞われていた。
このため、綱政は津田永忠、服部図書らを登用して財政再建に取りかかった。
綱政は、財政再建のためには農村再建による新田開発が必要であると考えていた。
また、この頃、岡山藩は大洪水などの天災が発生して多難を極めていた。
そのため、津田永忠を用いて児島湾に大がかりな干拓を行ない、洪水対策として百間川や倉安川の治水工事を行なった。
この農業政策は成功し、岡山藩は財政が再建されることとなった。
綱政は造営事業にも熱心で、元禄11年(1698年)には池田氏の菩提寺である曹源寺を創建する。
元禄13年(1700年)には、やはり永忠を責任者として ……
池田綱政が亡くなってから、309年と350日が経過しました。(113212日)