本多忠勝(ほんだただかつ)
戦国武将、上総大多喜藩・伊勢桑名藩 初代藩主[日本]
(徳川四天王のひとり、慶長15年10月18日没)
1610年 12月3日 死去享年63歳

本多 忠勝(ほんだ ただかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。
徳川氏の家臣。
上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。
忠勝系本多家宗家初代。
本姓は藤原氏。
通称は平八郎(へいはちろう)、官途は従五位下、中務大輔である。
なお、忠勝は発給文書で「中務少輔」と併用している事例が多く、その併用の理由も不明で、ただ単に官途に対して無頓着だったようだ。
後世、徳川三傑・徳川四天王・徳川十六神将として崇められた。
生涯=
出生・初陣と初首=
本多忠勝誕生地石碑(愛知県岡崎市西蔵前町)
天文17年(1548年)、安祥松平家(徳川本家)の譜代である藤原姓本多氏で、本多忠高の長男として、三河国額田郡蔵前(愛知県岡崎市西蔵前町)で生まれた。
天文18年(1549年)、父・忠高が戦死し、叔父・忠真のもとで育った。
幼い頃から徳川家康に仕え、永禄3年(1560年)13歳の時に桶狭間の戦いの前哨戦である大高城兵糧入れで初陣したとされる。
このとき、同時に元服したようだ。
永禄6年(1563年)の三河一向一揆に徳川方として参戦している。
徳川四天王としての武勲=
今川義元が敗死し、家康が今川家から独立し、織田信長との清洲同盟締結後、忠勝は上ノ郷城攻めや牛久保城攻めなどに参戦した。
永禄6年(1563年)9月の三河一向一揆では、多くの本多一族が敵となる中で、一向宗(浄土真宗)から浄土宗に改宗して家康側に残り武功を挙げた ……
本多忠勝が亡くなってから、414年と221日が経過しました。(151435日)