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柳亭種彦(りゅうていたねひこ)

戯作者[日本]

(天保13年7月19日没)

1842年 8月24日 死去享年60歳

柳亭種彦 - ウィキペディアより引用

柳亭 種彦(りゅうてい たねひこ、天明3年5月12日(1783年6月11日)- 天保13年7月19日(1842年8月24日))は、江戸時代後期の戯作者。
長編合巻『偐紫田舎源氏』などで知られる。
幼名は宇吉・主税、のちに左門。
通称は彦四郎、諱は知久、字は啓之。
別号に足薪翁、偐紫楼。
川柳名は木卯。
『浮世形六枚屏風』は1847年のドイツ語訳を皮切りに英伊仏訳が出版され、欧米で翻訳された最初期の日本文学と言われる。
生涯= 食禄200俵の旗本高屋仁三郎知義の子どもとして生まれる。
生地は山の手説と本所吉田町説がある。
間もなく御徒町へ移った。
寛政8年(1796年)4月に父甚三郎が没し、同年7月家督を継ぎ、高屋彦四郎知久を名乗った。
唐衣橘洲に師事して狂歌を学ぶ。
狂歌の狂名は、はじめ「柳の風成」、のちに「心の種俊」。
橘洲門下に彦四郎という別人がいたため、「種の彦どの」と呼ばれたことが「種彦」の号の由来となった。
「柳亭」の号は父から諭された「風に天窓はられて睡る柳かな」という教訓句に由来する。
文化7年(1810年)以前に加藤宇万伎の孫娘を娶った。
文化4年(1807年)読本『奴の小まん』で文壇に登場し、翌年『霜夜星』を刊行するなど、当初は読本作者を志した。
この時期、唯一の洒落本『山嵐』も刊行した。
文化10年(1813年)『綟手摺昔木偶』は曲亭馬琴からも高く評価された。
烏亭焉馬、山東京伝、山東京山、葛飾北斎、歌川国貞らと交わるよう ……

柳亭種彦が亡くなってから、182年と88日が経過しました。(66564日)

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