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徳川家斉(とくがわいえなり)

第11代江戸幕府将軍[日本]

(天保12年閏1月7日没)

1841年 2月27日 死去享年69歳

徳川家斉 - ウィキペディアより引用

徳川 家斉(とくがわ いえなり、旧字体:德川家齊)は江戸幕府の第11代将軍(在任:1787年 - 1837年)。
第8代将軍吉宗の曾孫。
第10代将軍家治は従伯父(実父の従兄)かつ養父。
生涯= 第11代将軍就任= 安永2年(1773年)10月5日、一橋家当主・一橋治済の長男として生まれる。
母は旗本の岩本正利の娘・富子。
安永8年(1779年)に第10代将軍・徳川家治の世嗣・家基の急死後、家治に他に男子がおらず、また家治の弟である清水重好も子供がいなかったことから、将軍継嗣問題が発生する。
家治は安永10年(1781年)2月に家基の3回忌法要を済ませた後、4月に将軍継嗣となるべき養子の人選係を老中の田沼意次、若年寄の酒井忠休、留守居の依田政次の3名に命じた。
この結果、閏5月18日に御三卿の一橋徳川家の徳川治済の嫡子である豊千代に決定し、11月2日に豊千代は家斉と改名し、天明2年(1782年)4月2日に従二位権大納言に叙任された。
この際に家斉を将軍継嗣とした立役者は田沼意次であり、天明元年(1781年)7月15日に将軍養子人選の労を家治に賞されて、1万石の加増を受けている。
北島正元はこの継嗣決定に何か裏があり、意次の弟・意誠やその子・意致らが家老として一橋徳川家と通じていたことから、意次と治済が必然的に将軍継嗣を出す素地を作り出していたとしている。
天明6年(1786年)、家治が50歳で病死したため、天明7年(1787年)に15歳で第11代将軍に就任した。
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徳川家斉が亡くなってから、184年と31日が経過しました。(67237日)