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後桃園天皇(ごももぞのてんのう)

第118代天皇[日本]

(安永8年10月29日崩御)

1779年 12月6日 死去享年22歳

後桃園天皇 - ウィキペディアより引用

後桃園天皇(ごももぞのてんのう、1758年8月5日〈宝暦8年7月2日〉 - 1779年12月16日〈安永8年10月29日〉)は、日本の第118代天皇(在位: 1771年1月9日〈明和7年11月24日〉 - 1779年12月16日〈安永8年10月29日〉)。
諱は英仁(ひでひと)。
幼名は若宮。
桃園天皇の第一皇子。
母は関白太政大臣一条兼香の女で桃園女御の藤原富子(恭礼門院)。
同母弟に伏見宮貞行親王がいる。
生涯= 宝暦12年(1762年)、父の桃園天皇が亡くなったときにまだ5歳であったことから、摂家の当主による話し合いで英仁ではなく、天皇の姉である後桜町天皇が即位した。
英仁の即位が回避された理由については諸説があり、幼帝の即位によって新たな側近衆が形成されて側近衆と摂家の政治的対立に端を発した宝暦事件の再来を警戒したという説、英仁親王への直系継承を支える仙洞(太上天皇)の存在が必要とされたからだという説、英仁親王の養育に生母の一条富子の関与を求めた(当時の慣例では天皇と母后は同居しないことになっており、英仁が即位すると富子が養育に関われなくなる)からだという説が出されている。
明和5年2月19日(1768年4月6日)に立太子。
皇太子が天皇の子(皇子)でないのは熙成親王(長慶天皇の弟、のちの後亀山天皇)以来400年ぶりで2020年現在最後の例。
天皇の甥が皇太子(皇太甥)になった例は益仁親王(光明天皇の甥、のちの崇光天皇)以来430年ぶり。
明和7年11月(西暦1771年1月)、伯母の後 ……

後桃園天皇が亡くなってから、244年と349日が経過しました。(89470日)