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和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう)

皇族、徳川家茂正室[日本]

1877年 9月2日 死去享年32歳

和宮親子内親王 - ウィキペディアより引用

親子内親王(ちかこないしんのう、1846年7月3日〈弘化3年閏5月10日〉- 1877年〈明治10年〉9月2日)は、仁孝天皇の第8皇女。
御称号は和宮(かずのみや)。
江戸幕府第14代将軍・徳川家茂の正室(御台所)。
家茂死後には落飾し、静寛院(せいかんいん)の院号宣下を受け、静寛院宮(せいかんいんのみや)と名乗った。
「和宮」(かずのみや)は誕生時に賜わった幼名で、「親子」(ちかこ)は文久元年(1861年)の内親王宣下に際して賜わった諱である。
孝明天皇の異母妹。
明治天皇の叔母にあたる。
品位は二品、薨後贈一品。
生涯= 生い立ち= 弘化3年(1846年)閏5月10日、京都御所の東に隣接する橋本邸において、仁孝天皇の第八皇女として生まれる。
母は側室・橋本経子(観行院)。
閏5月16日、異母兄・孝明天皇より和宮の名を賜る。
父・仁孝天皇は和宮の誕生に先立つ1月26日に崩御しており(遺腹の子)、和宮は勅命により橋本邸で養育された。
嘉永4年(1851年)7月12日、孝明天皇の命により有栖川宮熾仁親王と婚約する。
降嫁= 安政5年(1858年)6月27日、日米修好通商条約の無断調印の旨が宿継奉書で京都に知らされた。
翌日の28日、孝明天皇は譲位の意思を示した。
驚愕した一同に諌止されたが、朝廷は幕府へ説明を求め大老の井伊直弼および御三家に上京を求めた。
しかし多忙または謹慎中のため、京都所司代の酒井忠義、老中の間部詮勝が京都へのぼることになった。
そ ……

和宮親子内親王が亡くなってから、147年と37日が経過しました。(53729日)

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