有栖川宮幟仁親王(ありすがわのみやたかひとしんのう)
皇族[日本]
1886年 1月24日 死去胃がん享年73歳
有栖川宮幟仁親王(ありすがわのみや たかひとしんのう、文化9年1月5日(1812年2月17日) - 明治19年(1886年)1月24日)は、幕末・明治期の日本の皇族、書家(有栖川流)。
身位は親王。
敬称は殿下。
神祇事務総督、神祇事務局督、神道教導職総裁、皇典講究所(現・國學院大學)総裁。
有栖川宮韶仁親王(霊元天皇曾孫)の第一皇子。
世襲親王家の有栖川宮第8代当主。
概要=
文政6年(1823年)、親王を宣下され上総太守。
元治元年には国事御用掛となり、慶応3年(1867年)に親王の位階第一位の一品を授けられ、明治新政府の議定・初代神祇事務総督・神祇事務局督に就任。
明治14年(1881年)、数多の神道家の請願により神道教導職総裁に就任。
時の祭神論争の沈静化に尽くし、翌年には皇典講究所総裁として皇学の隆盛に尽力した。
有栖川宮家は歌道・書道が家学で、五代・職仁親王の代に書道有栖川流の基礎を固め、幟仁親王により大成し確立した。
現大教院扁額も親王揮毫のものである。
来歴=
幼児期は八穂宮(やほのみや)と称した。
文政5年11月15日(1822年12月27日)、光格天皇の猶子となり、同6年9月23日(1823年10月26日)、12歳(数え)で親王宣下、幟仁の名を受け、翌月元服する。
弘化4年8月4日(1847年9月13日)、二品に叙せられ中務卿に任命される。
元治元年(1864年)5月には、熾仁親王とともに国事御用掛に任命された。
しかし、直後に禁門の変が発生。
その際、熾仁 ……
有栖川宮幟仁親王が亡くなってから、138年と300日が経過しました。(50705日)