有栖川宮威仁親王(ありすがわのみやたけひとしんのう)
皇族、海軍大将[日本]
1913年 7月5日 死去享年52歳
有栖川宮 威仁親王(ありすがわのみや たけひとしんのう、1862年2月11日〈文久2年1月13日〉- 1913年〈大正2年〉7月10日)は、日本の皇族、海軍軍人。
号は欽堂。
官職は軍事参議官。
称号・階級は元帥海軍大将。
勲等は大勲位。
功級は功三級。
世襲親王家の有栖川宮第10代当主。
有栖川宮幟仁親王(霊元天皇玄孫)の第四王子(男女合わせた王子女の中では八人目、ただし成人した男子は熾仁親王と威仁親王だけ)で、生母は家女房の森則子。
熾仁親王は異母兄。
幼称は稠宮(さわのみや)。
妃は加賀金沢藩主前田慶寧の娘・慰子(やすこ)。
最後の有栖川宮であり、また最初に海軍に就職した皇族(皇族軍人)である。
生涯=
生い立ち=
1862年2月11日(文久2年1月13日)、京都において誕生、稠宮と命名された。
父・幟仁親王にはすでに熾仁親王という嫡子がいたため、稠宮は然るべき年齢に達した後に妙法院門主を相続することが内定した。
しかし、明治維新による諸制度の変革で宮門跡の制度が廃されたことから、1871年(明治4年)に稠宮の妙法院相続の内定は取り消され、明治天皇によって幟仁親王が東京への転居を命じられたのに従い、稠宮も上京した。
1874年(明治7年)7月8日、参内した稠宮は明治天皇から海軍軍人を志すよう命じられ、同月13日、海軍兵学寮予科に入学した。
1876年(明治9年)、前田慰子と婚約。
1877年(明治10年)、鹿児島県逆徒征討総督として九州赴任中の ……
有栖川宮威仁親王が亡くなってから、111年と139日が経過しました。(40682日)