浅野長勲(あさのながこと)
広島藩主、政治家、侯爵[日本]
1937年 2月1日 死去享年94歳
浅野 長勲(あさの ながこと、天保13年7月23日(1842年8月28日)-昭和12年(1937年)2月1日)は、江戸時代末の大名、明治時代から昭和初期の日本の政治家、外交官、実業家、社会事業家、華族。
位階勲等爵位は従一位勲一等侯爵。
浅野家27代当主で、安芸広島新田藩第6代藩主、広島藩第12代(最後)藩主、同藩初代(最後)知藩事、元老院議官、駐イタリア公使、宮内省華族局長官などを歴任。
生涯=
出生と家督相続=
浅野懋昭(としてる、第7代広島藩主・浅野重晟の四男・浅野長懋(ながとし)の八男)の長男。
安政3年(1856年)2月、伯父・浅野長訓の養嗣子となる。
安政5年(1858年)11月4日、養父長訓の本家相続に伴って青山内証分家(広島新田藩浅野家)の家督を継いだ(この後、弟の元次郎は阿部家を継ぎ、雪年(ゆきとし、1861年 - 1936年)は同様に長訓の養子(後に鴻雪爪の養子)、長道(ながみち、1865年 - 1886年)は自身の養子となったため、最終的には末弟の養長(やすなが、1872年 - 1941年)が懋昭の跡を継ぐこととなった)。
従五位下・石見守に任官し、後に近江守に改めた。
なお、新田藩主在任中は初名の長興(ながおき)を名乗っていた。
文久2年(1862年)12月24日、今度は宗家の当主となった長訓(茂長)の養嗣子となり、青山内証分家の家督は従弟の浅野長厚(正室は長勲の姉妹)に譲った。
通称を紀伊守に改める。
文久3年(1863年)2月11日、従四位下・侍従に任官し、将軍・徳川家 ……
浅野長勲が亡くなってから、87年と293日が経過しました。(32070日)