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三浦義澄(みうらよしずみ)

武将[日本]

(正治2年1月23日没)

(ユリウス暦) 1200年 2月9日 死去享年74歳

三浦義澄 - ウィキペディアより引用

三浦 義澄(みうら よしずみ、大治2年〈1127年〉 - 正治2年1月23日〈1200年2月9日〉)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。
鎌倉幕府の御家人。
桓武平氏の流れを汲む三浦氏の一族で、三浦介義明の次男。
十三人の合議制の一人。
経歴[編集] 相模国三浦郡矢部郷の出身。
具体的な時期は不明ながら、上総常澄の加冠によって元服し義澄と名乗ったとされる。
平治元年(1159年)の平治の乱では源義朝に従うが、平家方に敗れて京都から郷里に落ち延びる。
長寛2年(1164年)、兄・杉本義宗が亡くなり、それによって三浦氏の家督を継ぐ。
治承4年(1180年)の以仁王の挙兵時大番役として在京していた。
収束後関東に下り、6月27日には共に大番役を終えたばかりの千葉胤頼と伊豆国の源頼朝の下に参上し、以仁王の挙兵の詳細を報告している。
石橋山の戦いの際には、8月22日に三浦を出て頼朝の元に向かう。
だが悪天候のため参戦できず、大雨により増水した丸子川(酒匂川)畔で頼朝の敗戦を聞き24日に引き返す。
途中由比ヶ浜で平家方の畠山重忠に襲われるがこれを退け三浦に帰る。
また、この間に上総広常の弟の金田頼次が加わる。
しかし26日には河越重頼や江戸重長を味方に付けた畠山重忠に再度襲われ衣笠城にて防戦、衣笠城合戦となった。
この合戦で父・義明は討ち取られてしまうが、泣く泣く義明と別れ義澄らは安房国へ渡る。
同月29日に頼朝も上陸、9月3日長狭常伴が襲撃 ……

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