梶原景時(かじわらかげとき)
武将[日本]
(正治2年1月20日没)
(ユリウス暦) 1200年 2月6日 死去自害
梶原 景時(かじわら かげとき)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。
鎌倉幕府の有力御家人。
石橋山の戦いで源頼朝を救ったことから重用され侍所所司、厩別当となる。
当時の東国武士には珍しく教養があり、和歌を好み、「武家百人一首」にも選出されている。
源義経と対立した人物として知られるが、頼朝の信任厚く、都の貴族からは「一ノ郎党」「鎌倉ノ本体ノ武士」と称されていた。
鎌倉幕府では頼朝の寵臣として権勢を振るったが、頼朝の死後に追放され一族とともに滅ぼされた(梶原景時の変)。
生涯=
頼朝への臣従=
梶原氏は坂東八平氏の流れをくむ鎌倉氏の一族であり、大庭氏とは同族である。
曾祖父、または従曾祖父に後三年の役で源義家のもとで戦い武勇を謳われた鎌倉景正がいる(梶原氏の祖・景久の従兄弟)。
梶原氏は大庭氏らとともに源氏の家人であったが、平治の乱で源義朝が敗死した後は平家に従っていた。
治承4年(1180年)8月、源頼朝が挙兵して伊豆国目代・山木兼隆を殺した。
景時は大庭景親とともに頼朝討伐に向かい、石橋山の戦いで寡兵の頼朝軍を打ち破った。
敗走した頼朝は山中に逃れたが、大庭景親は追跡を続け、山中をくまなく捜索した。
『吾妻鏡』によると、この時、景時は飯田家義ともども頼朝の山中の在所を知るも情をもってこの山には人跡なしと報じて、景親らを別の山へ導いたという。
土肥の椙山のしとどの窟
『 ……