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安田義定(やすだよしさだ)

武将[日本]

(建久5年8月19日没)

(ユリウス暦) 1194年 9月5日 死去謀殺享年61歳

安田 義定(やすだ よしさだ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。
甲斐源氏の祖とされる源義光の孫源清光の子(清光の父義清の子とする説もある)。
人物・生涯= 安田氏は甲斐国山梨郡八幡荘内の安田郷を本貫地とする一族。
平安後期に甲斐源氏は甲府盆地の各地に進出して土着するが、峡東地域に勢力を持っていた古代在庁官人の三枝氏は応保2年(1162年)の八代荘停廃事件を契機に没落し、義定は盆地東部に進出し旧族安田氏を継承したと考えられている。
義定は同郡八幡荘や牧荘、安多荘などを根拠地として笛吹川流域の峡東一帯に勢力を持ち、山梨県山梨市小原西の保田山妙音寺に館を構えたという。
治承(1180年)4年4月、後白河法皇皇子・以仁王は平家追討の令旨を発し諸国の源氏に挙兵を促すが、『吾妻鏡』に拠れば以仁王令旨は伊豆国の源頼朝から甲斐・信濃方面へ伝えられ、同年4月末から5月初めまでに、甲斐源氏の元へも伝えられたと考えられている。
平家方に対して挙兵した伊豆国の頼朝は8月23日の石橋山の戦いで敗退し、8月25日には平家方の俣野景久、駿河目代の橘遠茂が甲斐へ攻め込み、甲斐源氏方では義定と工藤景光・工藤行光、市川行房らが出兵し、富士北麓の波志田山において景久らを撃退しており(波志田山合戦)、その経緯を記した『吾妻鑑』同条が義定の初見資料となっている。
このときは甲斐源氏の棟梁である武田信義や一条忠頼らは参加していないが、信義 ……

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