以仁王(もちひとおう)
貴族[日本]
(治承4年5月26日没)
(ユリウス暦) 1180年 6月20日 死去討死享年30歳
以仁王(もちひとおう)は、平安時代末期の皇族。
後白河天皇の第三皇子。
「以仁王の令旨」を出して源氏に平氏打倒の挙兵を促した事で知られる。
邸宅が三条高倉にあったことから、三条宮、高倉宮と称された。
生涯=
前史=
後白河天皇の第三皇子だが、『平家物語』では同母兄の守覚法親王が仏門に入ったため第二皇子とされている。
同母姉に歌人として名高い式子内親王がいる。
母親は藤原季成の娘・成子。
幼くして天台座主・最雲法親王の弟子となるが、応保2年(1162年)に最雲が亡くなり還俗。
永万元年(1165年)に人目を忍んで近衛河原の大宮御所で元服したという。
その後、八条院暲子内親王の猶子となる。
幼少から英才の誉れが高く、学問や詩歌、特に書や笛に秀でていた。
母の実家は閑院流藤原氏で家柄も良く、皇位継承において有力候補であったが、異母弟である憲仁親王(のちの高倉天皇)の生母であり権勢を誇った平滋子(建春門院)の妨害に遭って阻止されたという(『平家物語』)。
ただし、これは「因果応報」を主題とする『平家物語』の方便であって、必ずしも史実に即した解釈とはいえない。
特に仁安元年(1166年)、母方の伯父である藤原公光が権中納言・左衛門督を解官されて失脚したことで、以仁王の皇位継承の可能性は消滅し、親王宣下も受けられなかった。
治承三年の政変=
治承3年(1179年)11月、平清盛はクーデターを起こし後白河法皇を幽閉 ……