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大庭景親(おおばかげちか)

武将[日本]

(「富士川の戦い」で敗れ処刑される)

(ユリウス暦) 1180年 11月15日 死去

大庭 景親(おおば かげちか)は、平安時代末期の相模国の武将。
平良文の末裔である鎌倉景正の流れを汲む大庭氏の一族(景親は景正の曾孫にあたる)。
平治の乱後に平家の忠実な家人になり、治承4年(1180年)に義朝の遺児・源頼朝が挙兵すると平家方の武士を率いて石橋山の戦いで頼朝を撃破した。
しかし、安房国へ逃れた頼朝が再挙して多くの東国武士に迎えられて鎌倉へ入ると抗する術を失う。
頼朝が富士川の戦いで平氏を破った後に降伏し、処刑された。
生涯= 大庭御厨= 大庭氏は坂東八平氏の鎌倉氏の流れを汲む一族で、相模国大庭御厨(神奈川県寒川町、茅ヶ崎市、藤沢市)の下司職を相伝していた。
天養元年(1144年)に源義朝の郎党が相模国田所目代と共に三浦氏、中村氏を率いて大庭御厨に侵攻した(大庭御厨事件)。
この義朝らの行動は朝廷から不問に付される。
保元元年(1156年)の保元の乱では義朝の軍勢に属している。
なお、この従軍は義朝への私的な臣従ではなく、後白河天皇の命を受けた国衙からの命令に従っただけという説もある。
兄の景義とともに白河北殿の西門を守る源為朝に挑みかかり、後三年の役で源義家のもとで戦った鎌倉景正の末裔であると名乗りを上げた。
為朝は鏑矢を放ち景義の左の膝を砕いた。
景親は落馬した兄を助け出して退散している。
保元の乱は義朝の属する後白河天皇方の勝利に終わったが、平治元年(1159年)の平治の乱で義 ……