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工藤祐経(くどうすけつね)

武将[日本]

(建久4年5月28日没)

(ユリウス暦) 1193年 6月28日 死去討死

工藤祐経 - ウィキペディアより引用

工藤 祐経(くどう すけつね、1147年もしくは1152年 - 1193年6月28日)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・御家人。
藤原南家の流れを汲む工藤滝口祐継の嫡男。
生涯= 所領争い= 幼少期に父・祐継が早世すると、父の遺言により義理の叔父である伊東祐親が後見人となる。
元服の後、祐経は祐親の娘・万劫御前を娶り、祐親に伴われて上洛し平重盛に仕える。
歌舞音曲に通じており、「工藤一臈」と呼ばれた。
だが、祐経が在京している間に祐親は祐経が継いだ伊東荘を押領してしまい、妻の万劫御前まで奪って土肥遠平に嫁がせてしまう。
祐親は祖父かつ養父の工藤祐隆が嫡孫の自分を差し置いて、養子の祐継に伊東荘を相続させたことに不満を抱いていたためである。
押領に気付いた祐経は都で訴訟を繰り返すが、祐親の根回しにより失敗に終わる。
所領と妻をも奪われた祐経は祐親を深く怨み、祐親の殺害を図って安元2年(1176年)10月、郎党に命じ、伊豆奥野の狩り場から帰る道中の祐親父子を襲撃させ、祐親を討ち漏らすもその嫡男・河津祐泰を射殺する。
残された祐泰の妻は、子の一萬丸(曾我祐成)・箱王(曾我時致)兄弟を連れ、曾我祐信に再嫁した。
治承4年(1180年)8月の源頼朝挙兵後、平家方として頼朝と敵対した祐親は、10月の富士川の戦い後に頼朝方に捕らえられて自害した。
祐経の弟とされる宇佐美祐茂が頼朝の挙兵当初から従い、富士川の戦いの戦功で本領 ……

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