曾我時致(そがときむね)
武士[日本]
(建久4年5月29日没)
(ユリウス暦) 1193年 6月29日 死去斬首享年20歳
曾我 時致(そが ときむね)は、鎌倉時代初期の武士。
曾我兄弟の仇討ちで知られる。
曽我五郎、曽我時宗とも。
生涯=
安元2年(1176年)、3歳の時、実父・河津祐泰が所領相続をめぐって揉めていた同族の工藤祐経に暗殺される。
その後、母(満功御前)が兄と自身を連れ相模国曾我荘(現神奈川県小田原市)の領主・曾我祐信に再嫁する。
兄・祐成は元服後に曽我の家督を継いだ。
ただし『吾妻鏡』では、祐信には先妻との間に実子の祐綱がおり、彼が家督を継いでいる。
建久元年(1190年)9月7日、北条時政を烏帽子親として元服、その偏諱を賜って時致と名乗ったとされ、その後は時政の庇護の下にあったという。
曾我兄弟は厳しい生活のなかで成長し、雁の群れに亡き父を慕ったと伝えられる。
曽我兄弟の仇討ち(歌川広重画)
建久4年(1193年)5月、時致は兄・祐成と共に源頼朝が開催した富士の巻狩りに参加した。
同月28日、曾我兄弟の仇討ち事件は富士の巻狩り最後の夜に起きた。
『吾妻鑑』28日条には「曽我十郎祐成・同五郎時致、富士野の神野の御旅館に推參致し工藤左衛門尉祐経を殺戮す」とあり、曽我兄弟は富士野の神野の御旅館におしかけて工藤祐経を討った。
このとき酒の相手をしていた王藤内も討たれた。
傍に居た手越宿と黄瀬川宿の遊女は悲鳴を上げ、この一大事に現場は大騒動となった。
この後、祐成は駆けつけた仁田忠常に討たれるが、時致は頼朝の御前を ……