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河津清三郎 氏(かわづせいざぶろう)

俳優[日本]

1983年 2月20日 死去享年76歳

河津清三郎 - ウィキペディアより引用

河津 清三郎(かわづ せいざぶろう、1908年〈明治41年〉8月30日 - 1983年〈昭和58年〉2月20日)は、日本の俳優である。
本名中島 誠一(なかじま せいいち)、旧芸名河津 精一(かわづ せいいち)、河津 史郎(かわづ しろう)。
阪妻・立花・ユニヴァーサル連合映画で映画デビューし、マキノ・プロダクション移籍後は沢村國太郎に次ぐ若手時代劇スターとなった。
その後、新興キネマに入社して男優の看板スターとして多くの作品に主演し、戦後は個性派の脇役として活躍した。
主な出演作品に『首の座』『次郎長三国志』シリーズ、『用心棒』など。
妻は女優の高津慶子。
来歴= 1908年(明治41年)8月31日、東京府東京市日本橋区蠣殻町に生まれる。
浜町で待合を営んでいた父・嘉一と母・はまの養子である。
東華小学校を卒業後、正則英語学校に入学。
俳優を志すが養父母に反対されて家出をし、地方巡業の一座に入る。
その後、吉野二郎を知って連鎖劇に出演したのち新派の村田正雄の門下となる。
1925年(大正14年)6月、村田が亡くなったため剣劇の明石潮一座に加入。
翌1926年(大正15年)5月に太秦の阪東妻三郎プロダクションに入社、同年9月に阪妻プロは阪妻・立花・ユニヴァーサル連合映画として新発足し、その現代劇部に所属する。
河津精一を芸名とし、1927年(昭和2年)に同社第3作の『青蛾』で映画デビュー。
『雲雀』『勤王と血』などに出演するが、同年5月に阪妻プロが ……

河津清三郎が亡くなってから、41年と275日が経過しました。(15250日)

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