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青木周蔵(あおきしゅうぞう)

外交官政治家、子爵[日本]

1914年 2月16日 死去肺炎享年71歳

青木周蔵 - ウィキペディアより引用

青木 周蔵(あおき しゅうぞう、旧字体:靑木 周󠄀藏、1844年3月3日〈天保15年1月15日〉 - 1914年〈大正3年〉2月16日)は、明治・大正期の日本の外交官、政治家。
栄典は贈正二位贈勲一等子爵。
来歴[編集] 生い立ち[編集] 生誕地(山口県山陽小野田市埴生字小埴生) 長門国厚狭郡生田村(のち山口県山陽小野田市)出身。
幼名は三浦團七。
長州藩の村医・三浦玄仲と妻・友子の長男として生まれ、22歳の時に毛利敬親の侍医で日本で初めて種痘を行った蘭学者・青木周弼の弟で後の宮廷大典医となる青木研藏の養子となって士族となり、この際に2人の名を取り周藏と改名し、研藏の娘・テルと結婚する。
留学[編集] 明倫館で学んだ後、留学候補として松岡勇記と共に長崎へ派遣され医学修行を行う。
長崎ではオランダ人教師が伝習生に対して「独逸学(ドイツ医学)」の習得を勧め、その優越を喧伝したことから、ドイツは伝習生間での留学希望先として衆目を集めつつあった。
長州藩では留学生を送り出すにあたって、必ず二人組での同行を求めていた。
しかし周藏は松岡を徹底して忌み嫌っており、先輩医師の半井春軒との同行を申し出る。
ここで戊辰戦争が勃発し、現役医師は治療現場に駆り出され、松岡、半井の件は棚上げとなる。
1868年(明治元年)、藩留学生として土佐藩士・萩原三圭と共に「孛漏西(プロイセン)」への留学が認可された。
渡独後、医学から政治、経済学に無断転 ……

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青木周蔵が亡くなってから、110年と161日が経過しました。(40339日)