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原三渓(はらさんけい)

実業家、茶人[日本]

1939年 8月16日 死去享年72歳

原三渓 - ウィキペディアより引用

原 富太郎(はら とみたろう、慶応4年8月23日[† 1] (1868年10月8日) - 昭和14年(1939年)8月16日)は、日本の実業家、美術品収集家、茶人。
号は三溪。
美濃国厚見郡佐波村(現・岐阜県岐阜市柳津町佐波)出身。
略歴= 原富太郎旧蔵の国宝の孔雀明王像(東京国立博物館)。
原が井上馨から購入したもの。
青木久衛の長男として生まれる。
小学校卒業後、儒学者の野村藤陰や草場船山に学ぶ。
その後上京し、東京専門学校(現・早稲田大学)で政治学・経済学を学び、跡見女学校の教師を務める。
1892年、横浜の豪商・原善三郎の孫であり、跡見女学校での教え子であった原屋寿(はら やす)と結婚して原家に入り、家業を発展させた。
神奈川懸久良岐郡六浦荘村 を本拠地とし、絹の貿易により富を築いた。
また富岡製糸場を中心とした製糸工場を各地に持ち、製糸家としても知られていた。
1915年に帝国蚕糸の社長、1920年に横浜興信銀行(現在の横浜銀行)の頭取となる。
美術品の収集家や茶人として知られた。
25歳頃から集め始めたコレクションは5000点を超え、没後に美術館や他の個人収集家に分散した。
日本や中国の古美術品(書画や茶道具)を集めるとともに、同時代の画家(小林古径、前田青邨、横山大観、下村観山、今村紫紅、速水御舟、安田靫彦ら)の作品を購入したり、生活費を支給したりして援助したパトロンでもあった。
没後、収集品は各地の美術館や個人 ……

原三渓が亡くなってから、85年と98日が経過しました。(31144日)