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平重盛(たいらのしげもり)

武将[日本]

(平清盛の嫡男、治承3年閏7月29日没)

(ユリウス暦) 1179年 9月2日 死去享年42歳

平重盛 - ウィキペディアより引用

平 重盛(たいら の しげもり)は、平安時代末期の武将・公卿。
平清盛の嫡男(長男)。
保元・平治の乱で若き武将として父・清盛を助けて相次いで戦功を上げ、父の立身に伴って累進していき、最終的には左近衛大将、正二位内大臣にまで出世した。
嫡男ではあったが継室の時子の子である宗盛や徳子とは母が異なり有力な外戚の庇護はなく、正室が藤原成親の妹・経子であったため、成親失脚後は一門のなかでは孤立気味であった。
政治的には平氏一門の中で最も後白河法皇に近い立場にあった。
清盛の後継者として期待されながらも、清盛と後白河法皇の対立では有効な対策を取ることができないまま、父に先立ち病没した。
六波羅小松第に居を構えていたことから、小松殿ないし小松内大臣とも、またその邸宅に48の灯籠(灯篭)を建てていたことから灯籠大臣とも称された。
生涯= 歌川国芳画「小松内大臣重盛」 保元の乱、平治の乱= 保延4年(1138年)、清盛の長男として誕生。
母は右近将監・高階基章の娘。
久安6年(1150年)12月、鳥羽法皇の蔵人に補される。
翌年正月に従五位下になる。
保元元年(1156年)の保元の乱に父に従って参戦。
『兵範記』には中務少輔・重盛の名が記されている。
清盛の軍勢は源為朝との戦闘で大きな被害を出し、形勢不利と見た清盛は撤退を指示した。
この時に重盛は父の制止を振り切って、為朝と戦うため出陣しようとするなど血気盛んなところ ……

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