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平時忠(たいらのときただ)

公家[日本]

(平清盛の義弟、文治5年2月24日没)

(ユリウス暦) 1189年 3月12日 死去

平 時忠(たいら の ときただ)は、平安時代末期の公家。
桓武平氏高棟流(堂上平氏)、兵部権大輔・平時信の子。
官位は正二位・権大納言。
母は二条大宮(令子内親王)の半物(はしたもの、下仕えの女房)をしていた女性(氏素性は未詳)。
平清盛の継室である平時子の同母弟。
後白河法皇の寵妃で高倉天皇の母・建春門院は異母妹にあたる。
平大納言、平関白と称された。
生涯= 生い立ち= 時忠の母については『吉記』に、二条大宮(令子内親王)に仕えた半物であったことが記されている。
この女性は時信との間に、時忠・時子・藤原親隆の室を産んだ。
やがて時信との関係は疎遠となり、右少弁・藤原顕憲と再婚して法勝寺執行・能円を産む。
顕憲の死後、時忠と時子は母を引き取って孝養を尽くしたという。
時忠と時子の年齢については、『兵範記』の清盛出家の記事の中に「相国今年五十一、二品四十三云々」 とあることから、時子は大治元年(1126年)生まれとなる。
記主の平信範は時子の叔父なので信憑性は高い。
時忠は『公卿補任』記載の年齢から逆算すれば、大治5年(1130年)生まれである。
しかし『吾妻鏡』には、時忠の薨去を聞いた源頼朝が周囲の者に年齢を尋ねたところ、62歳という返事があったと記されている。
これによれば、時忠は大治3年(1128年)生まれとなる。
時忠の生年は確定できないが、いずれにしても時子が年長である。
『保暦間記』に ……