後藤象二郎(ごとうしょうじろう)
土佐藩士、政治家、伯爵[日本]
1897年 8月4日 死去享年60歳
後藤 象二郎(ごとう しょうじろう、1838年4月13日〈天保9年3月19日〉 - 1897年〈明治30年〉8月4日)は、日本の武士(土佐藩士)、政治家、実業家。
名は象次郎とも表記される。
栄典は正二位勲一等伯爵。
土佐三伯の1人(他に板垣退助、佐佐木高行)。
生涯=
生い立ち=
後藤象二郎生誕地(高知市)
土佐藩士・後藤正晴(馬廻格・150石)の長男として高知城下片町に生まれる。
母は大塚勝従の長女。
幼名は保弥太(やすやた)。
通称は良輔(りょうすけ)だったが、後に象二郎と改名。
諱は正本(まさもと)、後に元曄(もとはる)。
字は日曄、暢谷、雲濤、不倒翁など。
雅号に暘谷、雲濤、光海、鷗公など。
板垣退助とは竹馬の友で互いに「いのす(猪之助=板垣の幼名)」と「やす(保弥太=後藤の幼名)」と呼び会う仲であった。
仲の良かった理由の一つには、互いに遠縁の親戚であったことが挙げられる。
→詳細は「後藤家と板垣家の関係」を参照
父の死=
嘉永元年(1848年)7月25日、保弥太11歳(満10歳)の時、江戸藩邸で父が病死すると、義理の叔父・吉田東洋が養育を扶助して育つ。
のち東洋が開いた少林塾に学ぶ。
また柳河藩士の大石種昌に大石神影流剣術を学び文武の業を修めた。
幕末=
土佐藩士時代の後藤
安政5年(1858年)、東洋の推挙によって幡多郡奉行となる。
万延元年(1860年)9月、土佐藩の大坂藩邸建築のための普請奉行を仰せ付けられる。
文久元年(1861 ……
後藤象二郎が亡くなってから、127年と108日が経過しました。(46495日)