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村井弦斎(むらいげんさい)

ジャーナリスト作家[日本]

1927年 7月30日 死去享年64歳

村井弦斎 - ウィキペディアより引用

村井 弦斎(むらい げんさい 村井 弦齋、文久3年12月18日(1864年1月26日) - 昭和2年(1927年)7月30日)は、愛知県豊橋市出身の明治・大正時代のジャーナリスト、小説家。
諱は寛(ゆたか)。
略歴= 村井弦斎(左)と妻の村井多嘉子(右) 三河吉田藩の武家の子。
父も祖父も儒者として藩に使え、漢学をよくした家柄だった。
父の村井清は著述家として『傍訓註釈 西洋千字文』など数冊の本を出版、また渋沢栄一の子息の家庭教師も勤めたほどの教養人であった。
甥は作曲家の呉泰次郎である。
父は明治維新後、社会の身分の変動を目の当たりにしたことから「息子には漢学だけでなく洋学も早くから学ばせたい」と考えるようになり、1872年に一家の将来を9歳の弦斎に託し一家で上京した。
彼は幼少のころから、ロシア語の家庭教師をつけられたり、漢学の塾に入れられたりして、早期の英才教育を受けた。
1873年に東京外国語学校(現・東京外国語大学)が開校すると、入学資格が13歳以上にもかかわらず、12歳で受験・入学させられた。
猛勉強で首席にもなったものの健康を害し、1881年に露西亜語科を中退。
その後、ロシア語の翻訳や著述で身を立てるようになる。
しかし、家庭のしつけや猛勉強などがたたって、うつ病傾向などの神経性の疾患を抱え、しばらく療養した。
病が癒えた後、新聞、雑誌の懸賞論文に応募を行い、毎日新聞に応募した論文が3等に入選したほか、いくつかの論文 ……

村井弦斎が亡くなってから、97年と115日が経過しました。(35544日)