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副島種臣(そえじまたねおみ)

佐賀藩士政治家、伯爵[日本]

1905年 1月31日 死去享年78歳

副島種臣 - ウィキペディアより引用

副島 種臣(そえじま たねおみ、文政11年9月9日〈1828年10月17日〉- 明治38年〈1905年〉1月31日)は、日本の政治家。
侍講兼侍講局総裁、参与兼制度事務局判事、参議兼大学御用掛、内務大臣(第4代)、枢密院副議長(第2代)、外務卿(第3代)、外務事務総裁、清国特命全権大使、宮中顧問官、興亜会会長、東邦協会会頭、愛国公党発起人等を歴任。
位階勲等は正二位勲一等伯爵。
初名は二郎(じろう)、龍種(たつたね)。
通称は次郎(じろう)。
号に蒼海(そうかい)、一々学人(いちいちがくじん)。
概要= 文政11年(1828年)佐賀城南堀に、佐賀藩士・枝吉南濠の次男として生まれる。
兄は枝吉神陽。
藩校・弘道館教諭を経て、尊王攘夷運動に奔走し兄と共に「義祭同盟」に参加。
32歳で副島家の養子となる。
明治維新後に参与・制度事務局判事となり、福岡孝弟と共に「政体書」を起草。
参議兼大学御用掛を経て外務卿となり、特命全権大使として清国に渡り日清修好通商条約の批准を交換して穆宗同治帝に謁見。
樺太国境問題、琉球帰属、マリア・ルス号事件等を担当。
明治六年政変後に下野し、愛国公党を立ち上げ「民撰議院設立建白書」を提出。
その後、約3年間中国大陸を漫遊し李鴻章等と交友を結ぶ。
明治天皇の信任厚く、侍講や宮中顧問官、枢密顧問官、内務大臣を歴任。
在野では「東邦協会」会長等を務め、アジアの人々と交友した。
雅号を「蒼海」と称し、漢 ……

副島種臣が亡くなってから、119年と294日が経過しました。(43759日)

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