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毛利元徳(もうりもとのり)

長州藩主、公爵[日本]

1896年 12月23日 死去享年58歳

毛利元徳 - ウィキペディアより引用

毛利 元徳 / 定広(もうり もとのり / さだひろ)は、江戸時代(幕末)から明治時代初期の大名。
毛利氏28代当主。
長州藩14代(最後の)藩主。
位階・勲等・爵位は従一位勲一等公爵。
生涯[編集] 長州藩の支藩である徳山藩8代藩主・毛利広鎮の十男として生まれる。
母は三宅才助の娘で側室の多喜勢(滝瀬)。
広鎮は還暦を迎えた2年前の天保7年(1837年)に隠居し、すでに成人していた七男(元徳の異母兄)の元蕃が藩主を継いでいた。
元徳の兄には他に福原元僴(越後、長州藩家老・福原家を継ぐ)、秋元志朝(山形藩主、のち館林藩主)らがいる。
徳山毛利家は長州藩の藩祖である毛利輝元の男系の血筋を伝える毛利家の分家であったが、広鎮の曾祖父・毛利元次(輝元の孫)が毛利家の後継候補から外されたことが元で、長州藩内に確執を生んでいた。
輝元直系の長州藩主は、4代吉広以来となる。
嘉永5年(1852年)2月27日、長州藩主・毛利慶親(のちの敬親)に嗣子がないため、その養子となる。
はじめは広封(ひろあつ)と名乗るが、安政元年(1855年)2月18日、養父・慶親の嫡子となった。
同年3月9日、従四位下侍従・長門守に叙任する。
また、13代将軍・徳川家定から偏諱(「定」の一字)を受けて定広(さだひろ)と名乗った。
安政5年(1858年)、長府藩主・毛利元運の次女である銀姫(安子)と婚儀を挙げる。
銀姫は元徳と前後して慶親の養女となっていた。
元治元年 ……

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毛利元徳が亡くなってから、127年と215日が経過しました。(46602日)