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加藤友三郎(かとうともさぶろう)

政治家、内閣総理大臣、元帥海軍大将、子爵[日本]

1923年 8月24日 死去大腸がん享年63歳

加藤友三郎 - ウィキペディアより引用

加藤 友三郎(かとう ともさぶろう、1861年4月1日〈文久元年2月22日〉- 1923年〈大正12年〉8月24日)は、日本の海軍軍人、政治家。
位階は正二位。
勲等は大勲位。
功級は功二級。
爵位は子爵。
最終階級は没後元帥海軍大将。
日露戦争で連合艦隊参謀長(日本海海戦時、第一艦隊参謀長兼任)、ワシントン会議で日本首席全権委員を務める。
海軍大臣(第8代)、内閣総理大臣(第21代)を歴任し、山梨軍縮やシベリア出兵撤兵を成し遂げた。
概説[編集] 海軍軍人として、海軍省の次官や呉鎮守府司令長官、第一艦隊司令長官などを歴任した。
その後、第2次大隈内閣をはじめ、寺内内閣・原内閣・高橋内閣・加藤友三郎内閣と5つの内閣で海軍大臣を務めた。
1921年(大正10年)から1922年(大正11年)にかけて、ワシントン会議に出席した。
没後、元帥海軍大将。
1922年(大正11年)には内閣総理大臣に就任したが、翌年、在職のまま死去した。
外務大臣の内田康哉が内閣総理大臣臨時兼任として加藤友三郎内閣を差配し、後任の内閣総理大臣が任命されるまで政権を運営した。
同じく海軍大将であった加藤隆義は養子。
「小林躋造海軍大将と早川幹夫海軍中将(両者は兄弟)は、加藤友三郎の甥である」とする書物もあるが、誤りである。
生涯[編集] 海軍軍歴と入閣[編集] 連合艦隊幹部。
右から秋山真之、加藤友三郎、上村彦之丞、東郷平八郎、島村速雄、舟越楫四郎 広島藩士、加藤七 ……

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加藤友三郎が亡くなってから、100年と338日が経過しました。(36863日)