平忠度(たいらのただのり)
武将[日本]
(元暦元年2月7日没)
(ユリウス暦) 1184年 3月20日 死去討死享年41歳
平 忠度(たいら の ただのり)は、平安時代の平家一門の武将。
平清盛の異母弟。
生涯=
天養元年(1144年)伊勢平氏の棟梁である平忠盛の六男として生まれる。
母は藤原為忠の娘(異説として良岑高成(立木田高成)の女とも)。
紀伊国の熊野地方で生まれ育ったと言われており、熊野別当湛快の娘で湛増の妹でもあった女を妻としたこともあったようである。
治承2年(1178年)従四位上。
治承3年(1179年)伯耆守。
治承4年(1180年)正四位下・薩摩守。
歌人としても優れており藤原俊成に師事した。
平家一門と都落ちした後、6人の従者と都へ戻り俊成の屋敷に赴き自分の歌が百余首収められた巻物を俊成に託した。
『千載和歌集』に撰者・俊成は朝敵となった忠度の名を憚り「故郷の花」という題で詠まれた歌を一首のみ詠み人知らずとして掲載している。
さざなみや 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな — 千載集六十六
平忠度(小林清親画)
『千載和歌集』以降の勅撰和歌集に11首が入集。
なお、『新勅撰和歌集』以後は晴れて「薩摩守忠度」として掲載されている。
源頼朝討伐の富士川の戦い、源義仲討伐の倶利伽羅峠の戦い等に出陣。
一ノ谷の戦いで、源氏方の岡部忠澄と戦い41歳で討死した。
『平家物語』によると源氏に紛れる作戦をとっていたが、源氏の多くが付けていないお歯黒を付けていたので見破られた。
忠度は明石を経て現在の兵庫県 神戸市長田 ……