平忠盛(たいらのただもり)
平家の武将[日本]
(仁平3年1月15日没)
(ユリウス暦) 1153年 2月10日 死去享年58歳
平 忠盛(たいら の ただもり)は、平安時代後期から末期の武将。
平清盛の父。
烏帽子親は義兄の源義忠。
伊勢平氏で初めて昇殿を許された。
北面武士・追討使として白河院政・鳥羽院政の武力的支柱の役割を果たすとともに、諸国の受領を歴任し、日宋貿易にも従事して莫大な富を蓄えた。
その武力と財力は次代に引き継がれ、後の平氏政権の礎となった。
歌人としても知られ、家集『平忠盛集』がある。
生涯=
白河院政期=
父の正盛は白河法皇に北面武士として仕え、源義親の追討で武名を上げた。
一方で源義忠に息女を娶わせるなど、先行の軍事貴族である河内源氏とも連携を図り、義忠は忠盛の烏帽子親となっている。
義忠死後に河内源氏が衰退するのと入れ替わるように、伊勢平氏は源氏の与党を従わせつつ勢力を伸ばしていった。
天仁元年(1108年)、忠盛は13歳で左衛門少尉となり、天永2年(1111年)には検非違使を兼帯して、京の治安維持に従事した。
天永4年(1113年)には盗賊の夏焼大夫を追捕した功で従五位下に叙される。
同年の永久の強訴では父とともに宇治に出動して興福寺の大衆の入京を阻止している。
永久2年(1114年)、白河院の寵妃・祇園女御に鮮鳥を献上し、父に続いてこの女御に仕えた。
その後、検非違使の任を離れ伯耆守となり、右馬権頭も兼任する。
永久5年(1117年)、鳥羽天皇に入内した藤原璋子(待賢門院)の政所別当となる。
他の別当には ……