堀部弥兵衛(ほりべやへえ)
赤穂藩士、赤穂浪士四十七士[日本]
(元禄16年2月4日没)
1703年 3月20日 死去切腹享年77歳
堀部 金丸(ほりべ かなまる(あきざね)、寛永4年(1627年)-元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。
赤穂浪士四十七士の一人。
通称は弥兵衛(やへえ/やひょうえ)。
堀部勝綱の子。
本姓は源氏(近江源氏)。
家紋は四ツ目結二ツ。
生涯=
出自・家系=
寛永4年(1627年)、浅野長重の家臣・堀部綱勝の子として常陸国笠間に生まれる。
母は不詳。
堀部家は祖父・助左衛門以来、浅野家に仕える譜代の臣下の家である。
幼少の時に父が死去したため、若年より播磨国赤穂藩士として浅野長直、長友、長矩の3代に仕え、祐筆を経て江戸留守居となり300石を知行した。
妻に山田氏の女、後妻として忠見氏の女・わかを迎えており、先妻の山田氏の女との間には弥一兵衛ときちの一男一女をもうけた。
ところが、元禄5年(1692年)12月に長男・弥一兵衛が男色関係のもつれから妻の縁戚の本多喜平次に殺され(本多は金丸が討ち取ったという)、後妻わかの弟・忠見政常の次男・堀部言真を養子に迎えたが、藩主・浅野長矩から却下されたため、赤穂藩の家禄を相続させる養子とすることはできなかった。
堀部武庸の婿入り=
元禄7年(1694年)、高田馬場の決闘で活躍した浪人・中山安兵衛(堀部武庸)を見込み、娘・きちと娶わせ婿養子に迎える。
この養子縁組は長矩も許可し、金丸は隠居(隠居料20石)して、代わりに安兵衛が家督を継いで長矩に仕えることになった。
元禄14 ……
堀部弥兵衛が亡くなってから、321年と245日が経過しました。(117490日)