間部詮勝(まなべあきかつ)
鯖江藩主、老中首座[日本]
1884年 11月28日 死去享年81歳
間部 詮勝(まなべ あきかつ)は、江戸時代後期の大名。
越前鯖江藩第7代藩主。
間部家8代。
幕末に老中首座を務めた。
生涯=
文化元年(1804年)2月19日、間部詮熙の五男として江戸の鯖江藩邸で生まれる。
幼名は鉞之進(えつのしん)。
文化11年(1814年)に鯖江藩主となり、11代将軍・徳川家斉の側近として奏者番、寺社奉行、大坂城代、京都所司代などを歴任する。
天保11年(1840年)、家斉の推薦で西丸老中となったが、天保の改革を行った水野忠邦に、奢侈好みだった家斉の最晩年の側近だったと疎まれ、天保14年(1843年)に老中を辞任した。
その後、安政5年(1858年)6月に南紀派の大老井伊直弼の下で再び老中に復帰し、財政を担当する勝手御入用掛と外交を担当する外国御用取扱を兼務する。
その後、勝手掛老中に上った。
同年9月には上洛し、朝廷から日米修好通商条約調印の勅許を得るとともに、京都所司代酒井忠義とともに一橋派や尊皇攘夷派を弾圧する安政の大獄に奔走する。
こうした動きに対し、吉田松陰は間部詮勝の暗殺を企てた。
「井伊の赤鬼」に対して「間部の青鬼」といわれたが、
間部詮勝が亡くなってから、140年と5日が経過しました。(51140日)