内山椿軒(うちやまちんけん)
歌人、儒学者[日本]
(天明8年11月9日没)
1788年 12月6日 死去享年66歳
内山 椿軒(うちやま ちんけん、1723年(享保8年)- 1788年12月6日(天明8年11月9日))は、江戸時代中期の狂歌師、儒学者、歌人である。
名は淳時(なおとき)。
通称は伝蔵(伝三とも)。
字および別号の賀邸は江戸牛込加賀屋敷に住むのに因む。
経歴・人物=
江戸の生まれ。
幕臣であったとされているが不明である。
後に文学に転向し、坂静山から和歌を学ぶ。
後に烏丸光胤や日野資枝からも和歌を学んだ。
江戸における六歌仙の一人となる。
近隣の武家の子弟に和漢の学と和歌を教えたが、この弟子として、四方赤良(太田南畝)、唐衣橘洲、朱楽菅江、平秩東作らがいることで知られる。
これらの弟子は、後に狂歌の制作に転じ、椿軒自身も狂歌を好み、唐衣橘洲の狂名は椿軒が選び与えた。
唐衣橘洲らが「明和十五番狂歌合」を催した時には萩原宗固とともに判者をつとめた。
天明期に入ると橘洲の『狂歌若葉集』の編集に協力して自作56首をのせ、息子の名義で序文を寄せているが、これは赤良の奔放な作風を好まなかったためらしく、このため天明3年以降の天明狂歌流行時には局外者となっていた。
著作=
『明和十五番狂歌合』。
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he09/he09_02393/index.html。
- 狂歌集の判者。
『遺珠集』- 没後に刊行。
和歌集。
注釈、出典、参考文献=
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内山椿軒が亡くなってから、236年と220日が経過しました。(86419日)