朱楽菅江(あけらかんこう)
戯作者、狂歌師[日本]
(寛政10年12月12日没)
1799年 1月17日 死去
朱楽 菅江(あけら かんこう、元文5年10月24日(1740年12月12日)? - 寛政10年12月12日(1799年1月17日))は、江戸時代後期の戯作者、狂歌師。
大田南畝、唐衣橘洲と共に天明狂歌ブームを築き、狂歌三大家といわれた。
本名は山崎景基(後に景貫と改名)、字は道甫、通称は郷助。
狂名は朱楽菅江(漢江)、俳号は貫立、号は朱楽館・准南堂・芬陀利華庵、戯作号は朱楽館主人。
生年は1738年とも。
生涯=
内山賀邸に和歌を学ぶかたわら、雑俳にも親しんだ。
狂歌は安永初め頃から、同門の大田南畝、唐衣橘洲、平秩東作らと始めた。
妻の節松嫁々と朱楽連を結成し、狂歌界の巨頭として『故混馬鹿集』(1785年)『江戸爵』(1786年)の編者となる一方、1783年に『万載狂歌集』を編み、1785年に『狂言鶯蛙集』を発刊。
1788年、和歌に近い立場で『鸚鵡盃』『八重垣縁結』を撰び、寛政期には和歌への傾斜を深め、1791年『狂歌大体』を著した。
戯作は大田南畝に刺激され、『売花新駅』(1777年)『大抵御覧』(1779年)『雑文穿袋』(1779年)を執筆。
その後、川柳の牛込蓬莱連へ入り込み、1780年より『川傍柳』出版に協力し、初編に19句、2編に15句を収めている。
参考文献=
浜田義一郎 「朱楽菅江」(『日本古典文学大辞典簡約版』岩波書店、1986年、18頁)
相賀徹夫『万有百科事典 1 文学』小学館、1976年。
朱楽菅江が亡くなってから、225年と307日が経過しました。(82488日)