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蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)

版元[日本]

1797年 5月31日 死去享年48歳

蔦屋重三郎 - ウィキペディアより引用

蔦屋 重三郎(つたや じゅうざぶろう、寛延3年1月7日(1750年2月13日)[1][2] - 寛政9年5月6日(1797年5月31日)[3][2])は、江戸時代中期から後期にかけて活動した版元[4]。
安永3年(1774年)に北尾重政の『一目千本』を刊行して以降、江戸日本橋の版元として化政文化隆盛の一翼を担い、大田南畝、恋川春町、山東京伝、曲亭馬琴、北尾重政、鍬形蕙斎、喜多川歌麿、葛飾北斎、東洲斎写楽など多数の作家、浮世絵師の作品刊行に携わった[5]。
本姓は喜多川(生誕時の本姓は丸山)、本名は柯理(からまる)[6]。
通称は「蔦重」、「重三郎」といわれる[5][6]。
号は蔦屋[4]、耕書堂[2]、薜羅館など[2]。
商標は「富士山形に蔦の葉」とされた[4]。
自らも狂歌のほか戯作の制作も行っており、「蔦唐丸(つたのからまる)」と号した[4][2]。
その他、俳諧では「蔦十」と号して句を寄せている[7]。
生涯= 吉原時代= 重三郎は遊郭街のあったことでも知られた「吉原の里」で産まれたとされている[8]。
石川雅望が撰した『喜多川柯理墓碣銘』や大田南畝が浅草正法寺に建てた実母顕彰碑文に拠れば、父は尾張の丸山重助、母は津与といい江戸の広瀬氏出身となっている[6][8][2]。
父親の職業はわかっていないが、吉原という特殊な地域に関係のある仕事に就いていたと考えられている[6]。
重三郎の本名は柯理(からまる)で、(おそらく数えの)7歳の時に父母と別れて、商家であった喜多川氏の養子となった[6][8][2]。

蔦屋重三郎が亡くなってから、228年と28日が経過しました。(83305日)

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