大塩平八郎(おおしおへいはちろう)
儒学者・陽明学[日本]
(天保8年3月27日没)
1837年 5月1日 死去自決享年45歳
大塩 平八郎(おおしお へいはちろう)は、江戸時代後期の儒学者、大坂町奉行組与力。
大塩平八郎の乱を起こした。
通称は平八郎、諱は正高、のち後素(こうそ)、字は子起。
号は連斎・中軒・中斎。
家紋は揚羽。
大塩家は今川氏の末流と言われ、本家は尾張藩の馬廻として仕えた。
その分流が抱席の大坂東町奉行組与力となり、平八郎は初代の大塩六兵衛成一から数えて8代目にあたる。
大坂天満に生まれた。
かつては平八郎が養子で阿波国の生まれとする説も存在したが、乱に関する幕府評定所の吟味書の記述などから、養子である可能性は否定されている。
生涯=
大坂町奉行組与力=
14歳で与力見習いとして大坂東町奉行所に出仕する。
柴田勘兵衛門について佐分利流槍術を学び関西第一の評判を得る。
他に中島流砲術を学んだ。
25歳で与力となる。
奉行所時代は、組違いの同僚である西町奉行所与力・弓削新右衛門の汚職を内部告発したり、切支丹を摘発したり、破戒僧を処断したりなど、汚職を嫌い、不正を次々と暴いた。
奉行所内では大塩を疎む者もいたが、上司の東町奉行・高井実徳は大塩を重用した。
前述の弓削新右衛門の一件と、切支丹摘発、破戒僧の摘発を大塩自らが「三大功績」としている。
陽明学者=
文政7年(1824年)、独学で陽明学を修めた大塩は自宅に洗心洞を開く。
文政13年(1830年)の高井の転勤とともに与力を辞し、養子の大塩格之助に跡目を譲っ ……
大塩平八郎が亡くなってから、187年と203日が経過しました。(68505日)