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大友義鑑(おおともよしあき)

戦国武将[日本]

(天文19年2月12日没)

(ユリウス暦) 1550年 2月28日 死去享年49歳

大友 義鑑(おおとも よしあき、異体字:大友義鑒)は、戦国時代の武将・戦国大名。
豊後国大友氏の20代当主。
初めは親安(ちかやす)、親敦(ちかあつ)を名乗っていたが、後に室町幕府将軍・足利義晴より偏諱を賜って義鑑に改めた。
生涯= 文亀2年(1502年)、第19代当主・大友義長の子として生まれる。
永正12年(1515年)、父の隠居により家督を継いで20代当主となるが若年のため、同15年(1518年)までは父義長の補佐を受け、その死後は祖父の親治の補佐を大永4年(1524年)まで受けた。
なお、永正15年(1518年)に大聖院宗心(大友親綱の六男)の擁立を図った朽網親満が反乱を起こしたが鎮圧されている。
大永4年(1524年)3月9日、修理大夫に任官。
12代将軍・足利義晴の義の字を賜わり、親敦から義鑑と諱を改める。
大友氏は父・義長の時代に内紛を収拾していたため、積極的な領土拡大政策に乗り出した義鑑は、大勢力のいない肥後国に勢力拡大を図る。
肥後の名族菊池氏は内紛のために弱体化しており、義鑑は弟の大友重治(菊池義武)を養子として送り込むことによって、肥後の支配を目論む。
しかし、義武は義鑑と折り合いが悪く、遂には大名として大友氏からの独立を画策したため、義鑑は義武と骨肉の争いを繰り広げることになる。
なお、大永6年(1532年)3月29日、正五位下から従四位下に昇叙。
修理大夫如元。
享禄5年(1532年)7月4日、従四位上に昇叙し、修理大夫如元 ……

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