立花道雪(たちばなどうせつ)
戦国武将[日本]
(天正13年9月11日没)
1585年 11月2日 死去享年73歳
戸次 鑑連/立花 道雪(べっき あきつら/たちばな どうせつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
豊後の戦国大名・大友氏の家臣。
臼杵鑑速や吉弘鑑理らと共に大友家の三宿老に数えられた。
大友義鑑・大友義鎮の2代に仕えた大友家の宿将で、北九州各地を転戦し、その勇猛は諸国に知られて恐れられた。
本人は立花姓を名乗っておらず、戸次鑑連または戸次道雪で通している。
生涯=
少年期・家督相続=
永正10年(1513年)3月17日、大友家の一族である豊後国大野郡(大野荘)大野郷藤北(大分県豊後大野市大野町)の鎧岳城主・戸次親家の次男として生まれる。
最近、生誕地は、県民の森四辻峠付近の柳ヶ台(大野町高野字城浦)と解明された。
幼名は八幡丸(はちまんまる)。
長兄は早世したため嫡男として育てられる。
幼くして母を失い、父も病床にあったために代わりに継母(父の後妻で臼杵鑑速の姉)によって育てられた。
元服前の14歳の時、病弱な父に自ら志願し、補佐の老臣3人と共に2,000人の兵率いて出陣、これが初陣となる。
この時は大内領の豊前馬ヶ岳城(現在の福岡県行橋市)を攻め、八幡丸は金の指揮旗を振って奮戦し、兵力で3,000ほど勝る大内軍に勝利して凱旋した。
その直後の大永6年(1526年)、父・親家の死にともない、元服して戸次氏の家督を相続し、親守(ちかもり)、親廉(ちかかど)を名乗った。
家督相続後は大友義鑑に仕え、のちにその偏諱 ……
立花道雪が亡くなってから、439年と16日が経過しました。(160361日)