龍造寺政家(りゅうぞうじまさいえ)
戦国大名[日本]
(慶長12年10月2日没)
1607年 11月21日 死去享年52歳
龍造寺 政家(りゅうぞうじ まさいえ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。
肥前国の戦国大名。
戦国大名としての龍造寺氏最後の当主。
官位は従四位下・侍従、肥前守。
生涯=
弘治2年(1556年)、肥前国の戦国大名・龍造寺隆信の嫡男として誕生。
永禄4年(1561年)に元服し、近隣の強大勢力・大友義鎮(宗麟)から偏諱(「鎮」の字)を賜って鎮賢(しげとも、通称は太郎四郎)と名乗った。
のちに久家(ひさいえ)、政家と改名。
天正6年(1578年)に父から家督を譲られるが、形式的な家督相続であり、政治・軍事の実権は隆信が握り続けたままであった。
天正12年(1584年)に有馬晴信が龍造寺氏から離反すると、父から有馬氏討伐を命じられた。
しかし、正室が有馬氏の出身でこれに消極的であったため、隆信自ら有馬討伐に向かい、政家は留守を守った。
この有馬攻めの最中、隆信は沖田畷の戦いで戦死する。
父の死後、祖母と共に国政を行うが、島津氏が来襲するという流言があり、政家の叔父・信周は宿老と相談して鍋島直茂を柳河より呼び戻した。
また、隆信の死で勢いづいた島津氏の侵攻は如何ともしがたく、政家は島津氏に降った。
天正15年(1587年)、交誼のあった豊臣秀吉により嫡男の長法師は藤八郎と改名された。
さらに九州平定により、龍造寺政家は肥前国7郡30万9902石を安堵されたが、朱印状は龍造寺高房(藤八郎)宛となっている。
重臣の鍋島直 ……
龍造寺政家が亡くなってから、416年と321日が経過しました。(152265日)