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高橋紹運(たかはしじょううん)

戦国武将[日本]

(天正14年7月27日没)

1586年 9月10日 死去戦死享年39歳

高橋紹運 - ウィキペディアより引用

高橋 紹運(たかはし じょううん)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
豊後大友氏の家臣。
吉弘鑑理の子で、立花宗茂の実父にあたる。
紹運は法名であり、初めは吉弘 鎮理(よしひろ しげまさ / しげただ)、のちに大友宗麟の命令で筑後高橋氏の名跡を継ぎ、高橋 鎮種(たかはし しげたね)と称した。
生涯= 高橋家相続= 天文17年(1548年)、大友義鑑の重臣・吉弘鑑理の次男として豊後国筧城に生まれる。
義鑑の子・大友義鎮(のちの宗麟)と父・鑑理から1字ずつ賜り鎮理と名乗る。
初陣は13歳で永禄4年(1561年)の第四次門司城の戦いと考えられている。
永禄10年(1567年)、大友氏の家臣であった高橋鑑種が豊前国・筑前国・肥前国の国人と連携して謀反を起こした際、父・鑑理や兄・吉弘鎮信と共に出陣して武功を挙げた。
永禄11年(1568年)、立花鑑載討伐の時、ある夜襲の作戦で兵士を励むために、自分の握飯を食べて配下たちにも与え食べさせ、士気を上げたという。
永禄12年(1569年)に大友義鎮(宗麟)の命により高橋氏の岩屋城と宝満城の2城を継ぎ、名を鎮種と改めた。
以降は北九州の軍権を任されていた立花道雪と共に筑前国を支配することとなる。
北九州各地を転戦= 天正6年(1578年)耳川の戦いで大友氏は薩摩国の島津氏に大敗を喫する。
この大敗により兄・吉弘鎮信、義兄・斎藤鎮実、大友氏重臣の角隈石宗、佐伯惟教、田北鎮周など多数の有力武将が戦死 ……

高橋紹運が亡くなってから、438年と69日が経過しました。(160049日)