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伊東マンショ(いとうまんしょ)

キリシタン[日本]

(天正遣欧少年使節 正使)

1612年 11月13日 死去

伊東マンショ - ウィキペディアより引用

伊東 マンショ(いとう マンショ、Mancio、伊東 満所、永禄12年〈1569年〉? - 慶長17年10月21日〈1612年11月13日〉)は、安土桃山時代から江戸時代初期のキリシタン。
天正遣欧少年使節の主席正使、イエズス会員でカトリック教会の司祭。
マンショは洗礼名、本名は伊東 祐益(いとう すけます)。
生涯= 永禄12年(1569年)ごろ、日向国児湯郡(今の宮崎県西都市)の都於郡城にて、伊東祐青と母である伊東義祐の娘(通称「町の上」)の間に生まれた。
伊東氏が島津氏の侵攻により、伊東氏の支城の綾城が落城した際、当時8歳だったマンショは家臣の田中金太郎(のちの刀工・堀川国広)に背負われ無事に豊後国に退去する。
同地でキリスト教と出会い、その縁で司祭を志して肥前国有馬庄のセミナリヨに入った。
そのころ、巡察師として日本を訪れたアレッサンドロ・ヴァリニャーノは、キリシタン大名・大村純忠と知り合い、財政難に陥っていた日本の布教事業の立て直しと、次代を担う邦人司祭育成のため、キリシタン大名の名代となる使節をローマに派遣しようと考えた。
そこでセミナリヨで学んでいたマンショを含む4人の少年たちに白羽の矢が立てられ、マンショは大友宗麟の名代として選ばれた。
これはマンショが宗麟の姪(一条房基子女)の夫である伊東義益の妹の子という遠縁の関係にあったためで、本来は義益の子で宗麟と血縁関係にある伊東祐勝が派遣される予定であったが、当時祐勝は ……

伊東マンショが亡くなってから、412年と5日が経過しました。(150488日)

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