森忠政(もりただまさ)
美作津山藩主[日本]
(寛永11年7月7日没)
1634年 7月31日 死去享年65歳
森 忠政(もり ただまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。
信濃国川中島藩主、後に美作津山藩の初代藩主。
家系=
→詳細は「森氏」を参照
森氏は本姓は源氏、清和源氏の一家系・河内源氏の流れ、八幡太郎義家の四世孫・森伊豆守頼定を祖とすると称するが、この系譜は仮冒という説もある。
生涯=
幼少期=
元亀元年(1570年)、美濃金山城で織田信長の家臣・森可成の六男(末子)として生まれる。
母は美濃の豪族・林通安の娘・えい(後の妙向禅尼)。
幼名は仙千代。
誕生と同年中に父が戦死(長兄の可隆は父に先立って戦死)したために次兄の長可が家督を継いでいる。
石山合戦の和睦の際に母の妙向禅尼は一向宗の門徒ということで織田家と本願寺の講和の使者の1人となっていたが、この和睦の締結の際に「森家ゆかりの人間を僧籍に入れる」という事が条件に入っており、仙千代が一時期僧籍に入ったが程なくして関成政(森可成の娘婿)の四男の竹若丸が代わりに僧籍に入ることになり(法名・了向)、仙千代はすぐに還俗している。
天正10年(1582年)の春頃、「長重」を名乗り織田信長に小姓として出仕するが、同僚の梁田河内守にちょっかいをかけられ、信長の前で梁田の頭を扇子で殴打したのを見咎られ、「仙はまだ側仕えできそうにない。
母の元へ返せ。
」ということで、3月には美濃国の親許に返された。
しかし、結果としてこれが幸いして本能 ……
森忠政が亡くなってから、390年と240日が経過しました。(142688日)