万見重元(まんみしげもと)
戦国武将[日本]
(通称・仙千代、天正6年12月8日歿)
(ユリウス暦) 1579年 1月15日 死去討死
万見 重元(まんみ しげもと / まみ しげもと)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
織田氏の家臣。
通称は仙千代(せんちよ)で、万見仙千代の名で知られる。
戦死した時まで童名の仙千代で記録されているため、年齢的には若かったものと推測される。
重元の名は『法隆寺文書』における「まん仙千代重元」の署名による。
生涯=
神子田長門守の子と伝わる。
神子田正治は長門守の伯父の子で、仙千代はつまり従甥の関係にあたる。
一説に近江国出身とも言うが、尾張国ともいう。
万見姓を名乗っている理由など、出自はよくわからない。
織田信長の小姓であるが、その出仕の時期は不明。
信長や信忠に近侍し、他の大名や家臣との取次や、奉行として政務を執行し、戦場では主に検使の役を務めた代表的な側近である。
史料への初見は、天正3年(1575年)の9月10日付の信長書状(松江松平文書)または10月11日付の堀秀政との連名の書状(国友共有文書)。
天正6年(1578年)正月、安土の仙千代の自邸を会場にした信忠の名物開きの茶会が行われた。
同年5月以前より西国に向かう羽柴秀吉のもとに派遣されており、6月、大津長昌・矢部家定・長谷川秀一・菅屋長頼とともに神吉城攻めの検使を務めた。
同月、津田信澄とともに明石までの間に砦を構築し、その様子を信長に伝えた。
7月(15日以前に)和泉国の淡輪氏(淡輪徹斎ら水軍衆)から和泉国・紀伊国の情勢を報告 ……