田口掬汀(たぐちきくてい)
劇作家、美術評論家[日本]
1943年 8月9日 死去享年69歳
田口 掬汀(たぐち きくてい、1875年1月18日 - 1943年8月9日)は、日本の小説家、劇作家、美術評論家である。
本名は田口 鏡次郎(たぐち きょうじろう)。
息子に画家の田口省吾、孫に小説家の高井有一。
人物・来歴=
1875年(明治8年)1月18日、秋田県仙北郡角館町(現在の同県仙北市角館町)に生まれる。
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角館の小学校を卒業し、商家に奉公するなどして、1900年(明治33年)ころ、雑誌『新声』への投稿が認められて上京、佐藤義亮の新声社(新潮社の前身)に入社。
編集・記者業務に従事する傍ら創作活動を開始した。
1903年(明治36年)朝報社に入社。
1904年『萬朝報』に小説『女夫波』を連載、1905年『伯爵夫人』を連載、これらの家庭小説で人気作家となった。
日本における本格的な映画製作が始まった1909年(明治42年)以降、これらは映画化されている。
川上音二郎一座の大阪・帝国座で座付作者に就任し、『怪光』、『日本の恋』等の戯曲を手がけた。
1915年(大正4年)日本美術学院から美術雑誌『中央美術』を創刊。
翌1916年結城素明、鏑木清方、吉川霊華、平福百穂、松岡映丘に呼びかけ、会合を開き美術団体「金鈴社」を結成、中央美術展覧会を創設。
1926年に開館した東京府美術館(東京都美術館の前身)の経営にもかかわる。
1943年(昭和18年)死去。
満68歳没。
墓所は仙北市の西覚寺。
孫の高井有一が掬汀を描いた小説『夢の碑』を書いている。
著書=
国立国 ……
田口掬汀が亡くなってから、81年と105日が経過しました。(29690日)