松岡映丘(まつおかえいきゅう)
日本画家[日本]
1938年 3月2日 死去享年58歳
松岡 映丘(まつおか えいきゅう、1881年(明治14年)7月9日 - 1938年(昭和13年)3月2日)は、大正・昭和初期にかけて活動した日本画家。
本名は輝夫。
生涯=
播磨北部の神東郡田原村辻川(現在の兵庫県神崎郡福崎町辻川)の旧家・松岡家に産まれた。
父は松岡操。
兄には医師の松岡鼎、医師で歌人・国文学者の井上通泰(松岡泰蔵)、民俗学者の柳田國男、海軍軍人で民族学者、言語学者の松岡静雄がおり、映丘は末子にあたる。
他に3人の兄がいたが夭折し、成人したのは映丘を含め5人で、これが世にいう「松岡五兄弟」である。
幼少時に長兄の鼎に引き取られ、利根川べりの下総中部の布川町(現在の茨城県北相馬郡利根町)に移った。
その時分より歴史画、特に武者絵を好み、日本画家を目指した。
明治28年(1895年)、最初は狩野派の橋本雅邦に学んだが、鎧を描くのが大好きだった映丘には合わず半年ほどで通わなくなり、明治30年(1897年)に兄の友人田山花袋の紹介で、今度は住吉派(土佐派の分派)の山名貫義に入門する。
そこで本格的に大和絵の歴史や技法、有職故実(朝廷・公家・武家の儀典礼式や年中行事など)を研究するようになる。
明治32年(1899年)に東京美術学校日本画科に入学し、ここでは川端玉章、寺崎広業らの指導を受ける。
また在学中に小堀鞆音や梶田半古、吉川霊華らの「歴史風俗画会」に参加している。
明治37年(1904年)に首席で卒業する。
映丘の画号 ……
松岡映丘が亡くなってから、86年と264日が経過しました。(31676日)