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寺崎広業(てらさきこうぎょう)

日本画家[日本]

1919年 2月21日 死去咽喉がん享年54歳

寺崎広業 - ウィキペディアより引用

寺崎 広業(てらさき こうぎょう、慶応2年2月25日(1866年4月10日) - 1919年2月21日)は、秋田県出身の日本画家。
経歴[編集] 『四季山水』 放浪の画家といわれた寺崎広業は慶応2年(1866年)久保田古川堀反(秋田市千秋明徳町)の母の実家久保田藩疋田家老邸で生まれた。
寺崎家も藩の重臣であった。
父の職業上の失敗もあって横手市に移って祖母に育てられた。
幼児から絵を好みすぐれていたというが貧しく、明治10年(1877年)には太平学校変則中学科(現秋田県立秋田高等学校)に入学するも一年足らずで退学。
10代半ば独り秋田に帰り牛島で素麺業をやったりしたという。
秋田医学校にも入ったが学費が続かなかった。
結局好きな絵の道を選び、16歳で手形谷地町の秋田藩御用絵師だった狩野派の小室秀俊(怡々斎)に入門、19歳で阿仁鉱山に遊歴の画家第一歩を印したが、鹿角に至った時戸村郡長の配慮で登記所雇書記になった。
生活はようやく安定したが絵への心は少しも弱まらなかった。
広業には2人の異父弟佐藤信郎と信庸とがいたが、東京小石川で薬屋を営んでいた信庸のすすめで上京した。
1888年(明治21年)春23歳のことである。
寺崎の手による口絵 上京すると平福穂庵、ついで菅原白龍の門をたたいた。
広業は4か月でまた放浪の旅に出るが、穂庵のくれた三つの印形を懐中にしていた。
足尾銅山に赴いて阿仁鉱山で知りあった守田兵蔵と再会し、紹介されて日光大野屋旅館に ……

推定関連画像

寺崎広業が亡くなってから、105年と157日が経過しました。(38508日)