土岐頼純(ときよりずみ)
守護大名[日本]
(天文16年11月17日没)
(ユリウス暦) 1547年 12月28日 死去
土岐 頼充(とき よりみつ)は、戦国時代の大名で美濃国の守護大名である。
土岐頼武の嫡男で、母は朝倉貞景の三女。
妻は斎藤道三の娘。
諱は頼純または政頼とされることがあるが、書状に見える本人の署名は頼充である(後述)。
生涯=
大永4年(1524年)、土岐頼武の嫡男として誕生。
『実隆公記』大永4年11月15日条に三条西実隆が土岐氏の男子誕生を祝し太刀を贈っている事が見える。
父・頼武はその弟・頼芸と土岐氏家督を争っており、大永5年(1525年)に美濃で争乱が発生し、斎藤利良が戦死し、頼武は没落した(『于恒宿禰記』)。
頼武はこの後ほどなく死去したと考えられており、頼充が土岐氏惣領世襲の土岐次郎の名乗りを継いだ。
天文4年(1535年)、長良川の洪水を契機に頼充は美濃復帰を図り、六角氏・朝倉氏の支援を受けた頼充と頼芸・斎藤道三との間で、多数の寺院が焼亡する大乱が発生した。
翌天文5年(1536年)には、頼充方の斎藤彦九郎(宗雄)が別府城(岐阜県瑞穂市)を攻めている(『天文日記』天文5年9月19日条)。
天文6年(1537年)以降、徐々に戦乱は終息に向かい、仁岫宗寿は天文8年(1539年)正月の偈で兵乱の収束を祝している。
その過程で頼芸と六角定頼との同盟が成立している。
このときの和睦内容に関する史料はないが、頼充が頼芸の後継者となるというものだったと推測される。
天文12年(1543年)、斎藤道三が頼充の大桑城を攻め、頼充は尾張 ……