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中山義秀(なかやまぎしゅう)

作家[日本]

1969年 8月19日 死去がん享年70歳

中山義秀 - ウィキペディアより引用

中山 義秀(なかやま ぎしゅう、1900年10月5日 - 1969年8月19日)は、日本の小説家。
本名、議秀(よしひで)。
横光利一に兄事し、無名時代の長い苦節を経て『厚物咲』『碑』で文壇に登場。
以後作家として幅広く活躍した。
後年は、戦国武将物や剣豪物を多く書いた。
日本芸術院会員。
来歴= 生涯= 福島県西白河郡大屋村(現白河市)生まれ。
1918年に旧制安積中学(現・福島県立安積高等学校)を卒業、1923年に早稲田大学文学部英文科卒業。
早稲田大学在学中に、横光利一、富ノ澤麟太郎、小島勗らと同人誌『塔』を創刊。
小説『穴』を発表。
また、帆足図南次と『農民リーフレット』を発刊。
卒業後、三重県立津中学校(現・三重県立津高等学校)で英語教師を務めるが校長とトラブルを起こし、1925年に辞職。
親友のつてで千葉県の成田中学校(現・成田高等学校)に英語教師として赴任、印旛郡遠山村東和田に居を構え、教職のかたわら著作業を続けた。
しかし、校長排斥運動に連座して職を追われ、妻の死など苦難の後、1936年に最初の小説集『電光』を刊行、小林秀雄に認められる。
1938年、岩瀬郡長沼町(現須賀川市)を舞台にした『厚物咲』で第7回芥川賞。
翌年、幕末天狗党に加わった祖父をモデルに『碑』を発表し、文壇での評価を高める。
1942年に真杉静枝と再婚したが、1946年に離婚している。
1948年9月、戦中の取材を元に『テニヤンの末日』 を発表したほか、 ……

中山義秀が亡くなってから、55年と94日が経過しました。(20183日)

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