伊丹親興(いたみちかおき)
戦国武将[日本]
(天正2年11月15日没)
(ユリウス暦) 1574年 11月28日 死去自害
伊丹 親興(いたみ ちかおき、生年不詳 - 天正2年11月15日(1574年11月28日))は、室町時代・戦国時代の摂津国の武将。
官位は大和守。
通称は次郎、貞親。
伊丹親永の子。
子に伊丹忠親。
伊丹城の城主。
出自=
伊丹氏は摂津国の有力国人であり細川京兆家に仕えていたが、享禄4年(1531年)6月、細川高国・浦上村宗に味方した伊丹国扶が大物崩れにおいて討ち死にする。
伊丹氏は阿波細川家出身の細川晴元に降り、伊丹国扶の従兄弟、親興が伊丹城主となった。
生涯=
三好政権=
天文10年(1541年)9月、細川晴元の命令により、その重臣・三好長慶(摂津越水城主)が三好政長(摂津榎並城主)、池田信正(摂津池田城主)らと旧高国派であった摂津一庫城の塩川政年を攻めると、親興や三宅国村(摂津三宅城主)は一庫城攻撃の不当性を将軍・足利義晴に直訴し、木沢長政に救援を依頼。
親興自身も援軍に向かった為、三好長慶らは一庫城の攻囲を解き、同年9月29日に越水城に退却した(一庫城の戦い)。
この戦いは三好長慶と木沢長政の太平寺の戦いに発展した。
天文14年(1545年)には、細川晴元、三好長慶に協力して細川氏綱(細川高国の子)と戦った。
天文17年(1548年)末、三好長慶が主君・細川晴元に叛旗を翻すと親興は晴元に味方した。
翌天文18年(1549年)6月、三好長慶は三好政長を破り細川晴元を敗走させ(江口の戦い)、伊丹城を囲んだ。
しかし親興は城を守り通し、翌天文 ……