安宅冬康(あたぎふゆやす)
戦国武将[日本]
(永禄7年5月9日没)
(ユリウス暦) 1564年 6月17日 死去自害享年37歳
安宅 冬康(あたぎ ふゆやす)は、戦国時代の武将。
三好氏の家臣。
三好元長の三男。
安宅氏へ養子に入り淡路水軍を統率し、三好政権を支えたが、兄・三好長慶によって殺害された。
経緯・理由については様々な見解があり不明な部分が多い。
生涯=
細川晴元の重臣・三好元長の三男として生まれ、淡路国の水軍衆である安宅氏の養子となった。
穏やかで優しい仁慈の将であり、人望が高かったという。
元長の死以降、三好家は長男の長慶が摂津国・河内国・和泉国の兵を、次男・三好実休が阿波国衆を、冬康が淡路衆を、四男・十河一存が讃岐国衆を率いるという体制で各地を転戦した。
冬康は大阪湾の制圧や永禄元年(1558年)の北白川の戦い、永禄5年(1562年)3月の畠山高政との戦い(久米田の戦い)に従軍、特に畠山高政との戦いでは次兄の実休が敗死すると冬康は阿波に撤退して再起を図り、6月には再び高政と河内で戦い勝利している(教興寺の戦い)。
その後、弟・一存や次兄・実休、甥で長慶の嫡男・三好義興が相次いで死去すると、三好一族の生き残りとして長慶をよく補佐したが、永禄7年(1564年)5月9日に長慶の居城・飯盛山城に呼び出されて自害させられた。
跡を子・信康が継いだ。
冬康の殺害に関して=
冬康の殺害に関する経緯・理由については諸説ある。
山科言継は自身の日記『言継卿記』にて、冬康に逆心があったゆえに殺されたようだ(「逆心悪行」)、と、伝 ……